現在の島根県大田市の岩見銀山の中心地であった大森から銀や銀鉱石を大阪へ運ぶために利用されていた旧街道。16世紀前半、石見銀山の開発初期は、「鞆ヶ浦道」が利用され、日本海にある鞆ヶ浦が銀の積出港であった。その後、同じ日本海にある温泉津の沖泊が銀の積出港を担うようになり、「温泉津沖泊道」が利用されるようになった。
しかし、冬の日本海は季節風が強く、船の航行に支障が多いという問題を抱えていたため、徳川江戸幕府の直轄領(天領)となってからは、大森から中国山地を越えて尾道までの陸路(幅2.1m、長さ約130km)で運搬するようになった。このことで、より大量の銀が安全に運び出せるようになった。
また、尾道に至る途中の宇賀から笠岡に至る「笠岡道」も整備され、同じく瀬戸内海にある笠岡の港も銀の積出港となった。石見銀山からの瀬戸内海への銀の輸送は、幕末まで行われた。
しかし、冬の日本海は季節風が強く、船の航行に支障が多いという問題を抱えていたため、徳川江戸幕府の直轄領(天領)となってからは、大森から中国山地を越えて尾道までの陸路(幅2.1m、長さ約130km)で運搬するようになった。このことで、より大量の銀が安全に運び出せるようになった。
また、尾道に至る途中の宇賀から笠岡に至る「笠岡道」も整備され、同じく瀬戸内海にある笠岡の港も銀の積出港となった。石見銀山からの瀬戸内海への銀の輸送は、幕末まで行われた。